「…約束?どんな?」
「そーだなぁ。遙はおっちょこちょいだから、僕が君を守ってあげる」
「突然どうしたの?」
「いーの!!とにかく守ってあげる」
彼の屈託の無い笑顔には、私も頬を赤らめるしかない。
「……うん。約束だよ?――君」
――君?名前がわからないよ。声が、聞こえないよ。顔が、目が、見えないよ。君は誰なの?私のなんなの?
(ねぇ、教えてよ 。)
頭の中で、その子が遠ざかっていく。ネズミの大きさ、蟻の大きさにまで。
(あっ、待って!行かないで!!)
勢い良く手を伸ばし、彼の手を取ろうとする。が、届かない。追いつかない。
(待ってってばっ!!!!)
ベチッ!!!!
(……ベチっ??)
「いてっ」
(……いてっ??)
重いまぶたをゆっくり開く。そうすると、目の前に一人の人影があった。
「…。お、兄ちゃん?」
その人影の正体は兄の橘 凌哉。二つ上の高校三年生だ。
「遙。痛いんだけど」
兄の頬には手が。私の手だ。いつの間に殴っていたのか。
「起こしにきて、顔をのぞいたらいきなり手が迫ってきたんだよ?」
「そうなんだ…。ごめんごめん。今何時?」
辺りを見回して壁に掛かっているデジタル時計に気付く。
「えっと…7時52分だね」
7時52分…52分………って
「エッ!!!!!52分!?」
学校には8時までに登校しなくてはならない。家から学校まで15分。兄は別の高校に行っているので、まだ十分な余裕がある。
「いそがないとっ」
慌ててベッドから降り、別室にある衣服部屋にいって制服に着替えた。
そして、リビングに行って朝食を目の前にして怯んだ。これは今食べていくべきなのか、漫画や、アニメのように食べながら登校すべきなのか。
「もう、もっと早く起こしてくれればいいのにっ!!入学早々遅刻しそうだよっ!!」
私は少し前までは別の場所に住んでいた。生まれたのはこの土地だが、十年前に一度引っ越したのだった。
この土地に戻ってきたのは理由が在る。
私は昔ここに住んでいたときの「キオク」がない。
別に歳をとってボケてしまっているわけではない。記憶喪失というわけでもない。いや、そういってもいいのだろうか。そのときの「キオク」がポッカリと取り除かれているのだ。
中学校までは、親元で暮らしていたが、高校になってから、先に一人暮らしをはじめていた兄が、この土地に住んでいるということで、私もこの土地の高校を受験した。そして、めでたく合格し、親元を離れ、今では兄と二人暮らしだ。
「しょうがない、食べながら行くか」
結局、漫画やアニメで良くあるパターンの方法で、登校しようとしていた…のだが、
「ダメだよ、そんなの。許しません!!」
兄が私の肩を持って、無理矢理椅子に座らせようとした。
「でも、遅刻…」
「行儀が悪いよ。嫌われるかもしれないじゃないか」
「大げさな…。大丈夫だよ、漫画だってそんな嫌われないし」
「それはそれ、これはこれ。ほら、食べな」
大き目のマグカップに入っているコーンスープを兄はスプーンですくって、私の口の前に運ぶ。
「…うぅ…」
「どっちにしろ遅刻だろ?」
「…そうだけどぉー」
目をつぶって、一気にスプーンにかぶりつく。
私の負け。しっかり食べていく。
「おいしい?」
「……おいしい」
本当はこんな余裕は全然無いのだが、兄の笑顔に甘えてしまう。
皿の中を全て空っぽにして、8時2分の時計を無視して、玄関で靴を履く。
「遙、無理しない様に。行っておいで」
「うん」
兄に見送られ、私は少し急いで学校へと向かう。